創刊号のオープニング・シーンから始めようか。
いきなり、銀色のスポーツカーのドアミラーが大写しされる。取り付け部が二股に分かれてRを描く。まるでフェラーリ・テスタロッサかと見紛う新奇なデザイン。ミラーにつづくサイド・ウインドーには、もう1台の白いマシンが映り込んでいる。と、カメラは足元をねらう。リヤタイヤとサイドスカート部にえぐられた空洞。強烈なブレーキ熱を冷やしてくれる仕掛けだ、と一目でわかる。
アップがつづく。ライトを内蔵したフロント・マスク。カメラはリア・ビューをとらえる。エンジン部。2本のカムシャフトと左右にふりわけられたインタークーラー。ゆっくりと、テロップが流れる……。
2960cc V6・DOHC 330ps/6200rpm 9.0kgm/3200rpm
そのころとしては目をむくパワフルなエンジン諸元だった。
乗り手の心のたかぶりを、メッシュのドライビング・グローブが表現する。ウィーン、ウィーン。レーシング音が吠える。タコメーターの針が、下から上へ跳ね上がる。3000から4500あたりへ、一瞬のうちに……。そして、シフト・ギアが1速に吸いこまれた。
「NISSAN MID4」のプレートが誇らしげにズームアップされる。ミッドシップ・レイアウトとわかるリアエンドからのアングル。と、つぎの瞬間、はじき出されるように、ダッシュするMID4。新時代を切り裂くように疾駆するイメージと、いま誕生した創刊号とをオーバーラップさせようとする願いが、このオープニング・シーンに託されていたのだ。
ステージは、これまで決してメディアのカメラの入ることが許されなかった日産追浜工場内(神奈川県横浜市金沢区)のシークレットゾーンだった。東京湾に面したテストコースの直線を、そしてS字コーナーを、まるで鎖から解き放たれた猟犬のように、MID4が駆け抜ける。白いガードレールが流れる。工場の建て屋の向こうで、鈍く光る海がチラッとのぞく。島影は八景島か、それとも野島だろうか。
テンポのはやいミュージックに乗って、ナレーション(知る人ぞ知る、荻島正己さんの声なのだ)が流れる。
「日産MID4―Ⅱが前回の東京モーターショー(1985年)にデビューしたMID4をベースに、スタイリングをさらに一新、メカニズムもいっそうリファインされて、わたしたちの前に姿を現した。イタリアにはフェラーリ、ドイツにはポルシェ、イギリスにはロータス、そしてアメリカにだって、アメリカンドリームと称されるコルベットがある。
MID4―Ⅱ、こいつはもしかしたら、ジャパニーズドリームと呼べるクルマかもしれない。わたしたちベストモータリングは、この未来派スーパースポーツを、どこよりも早く、そして、どこよりもダイナミックな姿で紹介しよう」
創刊号を第27回東京モーターショー開催直前にぶつけることは、かなり前から決まっていた。だから企画の柱を、各自動車メーカーが意欲的に取り組んだコンセプトカー、たとえばTOYOTAのガスタービン搭載のGTV、MAZDAの着せ替えスポーツカーであるMX―4、時速320kmをマークしたという三菱HSRなどの実車映像を集めて「未来館パビリオン」をもうけよう、とか、その年登場したNEWカーをサーキットに集結させ、乗り比べる「動く、走るパビリオン」はどうか、などと一応の構えはできたものの、もうひとつ華がない。あっといわせるインパクトに欠けていた。1954(昭和29)年に日比谷公園で開かれた第1回の貴重な映像も入手したが、それも彩りを添える役割に過ぎない。何か、ないか!
前回のモーターショーの華は、日産が4WDのミドシップスーパースポーツのプロトタイプとして、持ち込んだMID4だった。それがⅠ型からⅡ型へと進化を遂げ、市販できるレベルにまで仕上がっている、という情報をキャッチした。エンジンも横置きマウントから縦置きに変えられたという。なんとか、試乗できないものか。
まだ世の中に認知されていないはずの創刊前の映像メディアの取材要請に、日産の広報部が最終的に対応してくれたのには、わけがあった。そのころ、日の出の勢いで自動車雑誌の中心的存在に定着しつつあった「ベストカー」(講談社・三推社の共同発行、月2回刊)がベースとなって、ビデオマガジンを新しく興すことになったのを、日産広報部はよくご存じだった、のである。もっといえば、三推社の専務であり、編集局長であるぼくが、新事業として「ベストモータリング」を立ち上げたことへの、積極的な反応のあらわれだった。
ただし、OKがもらえたのは、いわゆる締め切り間際の土壇場で、すでにこちらもスタジオ編集にとりかかっていた段階であった。くわえて、マシンは外部に持ち出すわけにはいかない、MID4の開発拠点である追浜工場付設のテストコースでなら、という条件つき。つまり最高速や0~400メートル加速の計測は無理で、ハンドリングを味わう程度の「インプレッション走行」だという。それでも、噂の「MID4―Ⅱ」の、実際に走っている姿を紹介できるだけでも、よしとするか。で、4分弱の「特ダネコーナー」を、なんとかはめ込むことができた。テスターは伏木悦郎を起用した。「ドライバー誌」を舞台に鋭い視点でNEWカーに斬り込む若手(当時35歳)として、密かに起用する機会を狙っていたモータージャーナリストだった。映像メディアは「見てくれ」も大事だろう。その点、彼の「館ひろし」ばりの苦み走ったマスクも、魅力の一つとして計算していた。
「走り終わって、ニュートラルにコーナーをトレースするのに感心した。パワフルだ。走りのハード面だけでいえば、即、市販OKである」
この伏木コメントも、なかなかじゃないか。しばらくはこの「新しい星」に賭けてみようか。 こうして、1987(昭和62)年10月23日、ベストモータリング創刊第1号は、全国の書店、コンビニエンスの店頭で一斉発売された。初版、6万3000部、増刷2000部、βタイプ3000部で合計6万8000部。実売率はなんと、85%に達した。予想をこえる人気で世の中にデビューできたのである。「クルマ雑誌がビデオになった!」という売り文句は、新しいマスコミ現象として、ひとまず成功したようだった。NHKテレビが午後7時台のニュースとしてとりあげてくれたのをはじめ、新聞・雑誌の取材が殺到し、これらは巧まずして、時代の要請にこたえて登場した「ビデオマガジン」のパブリシティ状況を演出することとなり、「1987年ベストヒット商品」の上位にランクされるなど、まずまずの滑り出し、といってもよかった。
が、2号目以降、ある時期までは、ずるずると低迷し、創刊スタッフは、その打開策に苦闘する日々が始まった。「クルマ雑誌」を単純に映像版にしただけでは、通用しなかったのである。独自の路線を創り出す必要があったのだが、それをどうやって克服していったか。そのあたりを、創刊スタッフの紹介を交えて、次号からじっくり触れてみたい。